悲しみだけにさようなら
僕がその知らせを受け取ったのは皮肉にも初めてのハワイ旅行に行ってる時、現地時間で午前2時頃だった。
「突然の連絡失礼します。Aさんが10月◯日午前×時△分頃交通事故により亡くなられました。葬儀は明日10月◯日に親族だけで行うそうです。警察によるとAさんに過失はないそうです。」
文面を見た僕は息が詰まった。字面のみから与えられる情報が身体中の筋力というものを一気に奪い去り僕は地面に倒れこんだ。
「意味がわからない」
本当にそう思った。字面だけで人の死というものを受け止めるには限界があるのだ。
「嘘ではないか」
本気でそう思った。数日前まで寛大なまでの優しさを僕含め周囲に振舞っていた人間が突然死んだ。信じれる訳がない。子供でもつかない嘘レベルだ。
急いで友人に電話をかけた。一刻も早く嘘だと言って欲しかったし、そう信じたかった。
電話に出た友人はやけに冷静に聞こえた。今まで字面だけで感じ取っていたものを改めて友人の言葉を通して聞いた途端、涙が自然と流れていた。
彼は本当に寛大な人だった。BUMP OF CHICKENが大好きな人だった。車が大好きな人だった。集団で遊ぶのが得意ではない自分にみんなで遊ぶようにとマリオパーティを買ってくれた人だった。何回もご飯に連れていってくれた人だった。笑顔が似合う先輩だった。尊敬していた。
気持ちの落ち着かない僕は午前3時に散歩に出かけた。抑えきれないほどの涙が溢れ出た。こういう時というのは思い出がフラッシュバックするものだ。浜辺に行って耳にした波の音は妙に僕の心身を落ち着かせた。海ってすごいな、純粋にそう思った。幾らか時が経った後、僕はハワイの波に不安や怒り、哀情を放り投げ浜辺を後にした。強く生きよう、今はそう思うことにした。
今までありがとう、またいつか、どこかで。
同世代監督が描く『少女邂逅』を見て。
咳き込んで胸を叩いた途端、あまりに大きな音が身体の中で反響して僕は実体まで空っぽなんだなと、そんなことばかり考えた1日だった。
話は変わるが先日、若干24歳の枝優花監督の描く『少女邂逅』を観に渋谷まで足を運んだ。
電車を降り久々に赴いた渋谷は相変わらず肌に合わないと感じた。度がすぎるほどの人や人種の多さ、新歓期のサークル勧誘を彷彿とさせるティッシュ配り、様々なモノが入り混じった匂い,etc....
どこを取っても気に障ることばかりだった。
そんな憤懣を超えてまでも観たかった映画、それが『少女邂逅』だった。
公開してすでに4ヶ月近く時が経つ映画だが、僕がこの作品を見つけたのは公開して1ヶ月近く経ったときのことだった。
例のように僕は音楽に傾倒して生きている。(あくまで音楽以外の趣味が持てなかったというだけであるが) 影響を受ける情報源も音楽やそれに関連する事柄が一番多いだろう。そんな中で、人混みが好きで苦手な僕がライブに行くほど好きなバンド『羊文学』の曲がこの映画のスピンオフ作品のタイアップに決まったことから初めてこの作品の存在を目の当たりにした。
僕の根幹にある考えだが、同じ芸術を好きな人は物の考え方や捉え方というものが近しいと感じる。そんな考えの元から、羊文学という芸術をタイアップとして使ったこの監督、そしてその作品には漠然とではあるがとても親近感を覚えた。
『少女邂逅』を観て思ったことはまさにその通りだった。同世代だった彼女は僕が観てきたものと同じ世界観の作品観て育ち、そしてそれを自分で表現する側に回ったんだなと感じた。
表現する側に回ったと簡単に表現しているがこれは決して簡単なことではない。表現するというのは誰しもができることではない。少なからず僕には到底できないし、大多数がそんなものだと思う。だからこそ、このように僕たちが好きなモノを表現してくれる表現者は有難い。
この作品は僕の好きな“ある作品”へのオマージュとも取れるような演出が散りばめられていた。しかしそこには確かに僕らの世代に落とし込んだ枝優花監督のオリジナリティを感じた。
あまり深読みしすぎた感想というのは不恰好に思ってしまう性分なので、過剰な感想はここでは控えさせていただきたい、不本意にネタバレもしたくはないので。
敢えて言うとすれば、名前に引っ張られず男の人も是非見るべきだと感じた。決して性別の隔たりがある作品ではないので。僕が観に行った時も8割ほど女性だった。
時間が経って映像が販売されてネタバレも気にしなくなった頃にもう一度この作品について書きたいと思う。大学を卒業した僕が仕事に追われず元気であれば。
とりあえず多くの人に映画館で観ていただきたい。そしてそれを共有したい。そう思えた作品だった。
退屈しのぎ
昨日鉛より重いであろう自分の足を動かし、とあるバンドのライブを見に行った。
きのこ帝国 presents 退屈しのぎ ~10th Anniversary編~10/3(水)下北沢BASEMENT BAR/THREE(二会場同時開催)
開場18:00/開演18:30
¥3,500(税込)
まず初めに言っておくと僕はこの手の二会場同時開催的なものがあまり得意ではない。好みのバンド以外見ない出待ちがいたり、移動の時間によってライブの始まりから終わりまで全体を見ることができないからだ。
今回のライブもそのような弊害はあった。どちらの会場の音楽もちゃんと聞いていたのは全体の3〜4割程だっただろう。
自分の好きなバンドが主催し、その人達の好きなバンドを呼んだ今回の企画。好きな人の好きなものって興味の範囲外なのだろうか。
少しだけ悲しくなった。ただ悪いことではないとは思う。自分の好きなバンドを見るために前線を張る、決して否定されるようなことではない。これはは価値観の違いなんだと思う。受け入れるべき範疇だ。
幸か不幸かきのこ帝国のトリ前となってしまったpaionia
彼らのライブを見た人は思ってる以上に多くはないだろう。
しかし、鳴ってる音楽は変わらなかったし演者、それを見ていた観客の目は輝いてた。
もしかするとこれで正解なのかもしれない。
ライブという音の感想を表際に自己満足の文章として書き起こしてしまうのは僕にとってあまり高尚とは思えないのでここでは辞めておきたい。
カッコよかった。
この表現に留めておきたい。
paioniaというバンド
2年と少し前ぐらい、僕の好きなバンドplentyのドラム中村一太氏がサポートをするということで初めて聞いたpaioniaというバンド
。
調べて行くうちに自分と同郷であることや上京していることなど深く親近感を覚えた。
あまり自分勝手な意見や御託を並べて先入観を与えたくないので、とりあえず歌詞を見ながらみんなに聞いて見てほしい。
一番新しいライブ映像だけ貼っておきます。
paionia - 跡形 [YouTube Music Sessions at FUJI ROCK FESTIVAL’18 "ROOKIE A GO-GO"] - YouTube
距離感
この年齢になっても“友人とは何だろう“と落ち目のない単調な題材に夜な夜な頭を働かせる時がある。僕の場合大概は、知人と接する内にその中で僕の思考と近しいと感じた人と距離間が縮まっていき友人になるという過程を辿ることが多いのだが、極たまに例外がある。
育ちも違ければ、性格も違い、プライベートでそこまで遊んだことがあるわけでもない、なのに友人である、或いは友達でありたいと思える人間がいることってないだろうか。
自分の場合、大学の学科の同期でありまたサークルの同期でもあった一人がその友人に当たる。
彼とは所属している団体こそ一緒だが、別に講義を一緒に受けるだのサークルで行動を共にするだの、そもそも一緒に遊ぶような仲ではない。(これは前述の通り性格や趣味の不一致に起因する)
下手しい4年の間に半年間話をしないような時期もあった。(単純に僕がサークルを辞めかけたため会わなくなった)
しかしながら彼は僕が大学2年次の終わりに気が滅入ってサークルを辞めようとした時、誰よりも止めてくれたし、誰よりも泣いてくれたのである。そして恥ずかしい話ではあるが、僕のことを本当の友人だと思っていると打ち明けてくれた。
恐らくこの出来事は一生忘れることはできないだろう、今後関係が続かなかったとしてもだ。
結果頭を巡らせたつもりではあるが、友人とは何かという問いには辿りつかなかった。ただ自分と似たような人間でなくても友人と思える人間がいるのは事実であるし、その根拠というものは分からない。でも友人っていうものはそういうことでいいんじゃないかなと僕は感じた。
お互いが干渉もせず尊重しあえる距離感ってことなのだろうか。
自分における飲み会の意義ついて
第一声として申し上げたいのが、僕はそもそもお酒が好きではない、むしろ嫌いだ、めっぽう弱いので。
体質として、すぐに全身真っ赤になり、次第に目眩や吐き気に襲われ、挙げ句の果てには寝る。そして罵倒されるのだ。
「飲み会の席で眠るのはないでしょ」
目眩や吐き気を耐え忍んで、惜しくも寝てしまった後に言われるこの言霊は、皆さんの想像を軽く超えるぐらいには精神をガタつかせる。
毎回どうしようもない失念を抱えながら帰路に着いているらしい。
飲み会や酒の席中心で回っている“大人の社会構成”に僕はあまりにも適していないと感じて帰って絶望する。
そんな僕が何を持って重い腰を上げ飲み会に参加するのか。
無論、コミュニティ重視では無い。僕は自分のことが分かってくれる人間だけと接していればいいと言う精神性の持ち主なので。
それは飲み会の席でだけ恥じらいもなく本質を語り合うことが許されるからだ。
自分自身いつでも自分や相手の価値観、考え方をしたいのだが、世の中そんなに上手くいかない。
シラフでこの話を展開した末路には
「その話つまらない」
「いや、そんな話よく真面目にできるね」
このどちらかのカウンターを食らう。
そして死ぬ、こちらはノーガードなので。
まあそんな話を、奇しくも嫌いなお酒の空間でのみ繰り広げることが許される訳だが、そういえばこの間こんな話が上がった。
近年の情報や工業の技術の発展による連絡手段の簡素化によって、
”誰かと会う機会そのものの意義“
までもが簡素化されちゃってるんじゃないかなって話。
この集まりはLINEの一言で全員が集まったわけだけど
これが十数年前だと全員に電話をかける、全員の予定を合わせるっていう何かしらの労力が必要であって、口を悪くいえば面倒臭さがあって。その労力も伴って皆が集まるっていうことはもっと意義があって特別なものだったんじゃないかなと。
今ではそこの連絡手段の容易さゆえに折角の機会の意義すら希薄してんのかなって話。
だからなんだよって話なんですけどね。
まあ自分が伝えたかったのはこんな捻くれた自分を飲み会に誘ってくれる先輩や同期、後輩に感謝してるってこと、酒やLINEのくだりは余談